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名古屋高等裁判所 平成元年(う)316号 判決 1990年1月25日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中九〇日を原判決の本刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人平松清志作成の控訴趣意書(但し、当審第一回公判期日における弁護人の釈明参照)に、これに対する答弁は、検察官氏家弘美作成の答弁書(但し、第二を除く)に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

右控訴趣意の要旨は、

<1>  被告人は妻甲野春子(以下「春子」という)の頚部を絞め付ける前に、春子に「一緒に死のう」と声をかけたところ、春子はなんら反対ないし抵抗せず、従容として死を承諾したので、被告人は春子の右承諾のもとに、春子の頚部を絞め付けて殺害したものであるし、

<2>  被告人は、就寝中の長男甲野二郎(以下「二郎」という)を殺害しようとしたが、目を覚ました二郎の顔を見て可愛そうになり、自らの意思で殺害を中止したものであるのに、

原判決は、春子に対する犯行は承諾殺人ではなく通常殺人であり、二郎に対する殺人未遂は中止未遂ではなく障害未遂であると認定したから、以上の点で原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

まず、<1>の論旨について記録を調査して検討するに、原審で取り調べられた関係各証拠によれば、被告人が原判示第一のとおり春子殺害の犯行を犯したこと及び右犯行に当たって春子が被告人に殺人の承諾を与えていなかったことが優にこれを肯認でき、右の各証拠中にはこの認定を動かすに足りる証拠は見いだせない。

補足して説明すると、被告人の捜査官に対する供述並びに二郎やAの捜査官に対する各供述等から窺われる右犯行前の春子の言動や右犯行の態様、殊に、春子は被告人の債務を返済するため必死で頑張っており、安易に自殺を口走る被告人を励まし、日ごろ「二郎が高校を出るまでは何としてでも頑張る」と言い、修学旅行に着せる二郎のトレーナーや下着の準備に心を痛めていたこと及び被告人は就寝中の春子の頚部に二重にしたナイロン製ロープを巻き付けたうえ、春子から顔を背けながら、一気にこれを引っ張って絞め付け、春子を殺害したことにかんがみれば、春子が右犯行時に被告人に対して殺人の承諾を与える状況になかった(被告人において春子が承諾したものと誤信するような状況にもなかった)ことが明らかである。被告人は、「春子を絞める際、『春子一緒に死んでくれ』と言いながら絞めた」旨供述するが、仮にそのとおりであったとしても、この事実は右の認定判断を何ら左右しない。加えて、被告人自身も、捜査段階や原審公判廷において、春子が死ぬことを承諾したとか承諾したものと思ったとかいう趣旨のことは一言も述べておらず、論旨は理由がない。

次に、<2>の論旨について考察するに、原審と当審とで取り調べられた関係各証拠、特に、被告人の捜査官に対する供述と当審公判廷における被告人の供述とを総合して検討してみると、被告人は、原判示第二のとおり、布団の上で就寝中の二郎の頚部に前記ナイロン製ロープを巻き付けて、これを引っ張って絞め付けたところ、気配で目を覚ました二郎が布団の上に半身を起こしたこと、二郎は半身を起こしてからも、首を振ったりして必死で抵抗しながら後ろを振り向いたが、その際、二郎の目と被告人の目があったこと、このとき被告人は、二郎の悲しそうで苦しそうな目を見て、憐憫の情を催し、ロープを引っ張る手の力を抜き、二郎を殺害しようとの気持ちを失くしたことが認められ、この認定に抵触する二郎の捜査官に対する供述はにわかに信用できず、右各証拠中にはこの認定を動かすに足りる証拠は見当たらない。確かに、被告人や二郎の捜査官に対する各供述によれば、二郎が布団の上に半身を起こすことができたのについては、二郎が相当の力で必死に抵抗したことによることが窺われるけれども、反面、二郎が半身を起こしたのちも、ロープは依然として二郎の頚に巻かれたままであり、大の男である被告人がロープを引っ張り続けようとすれば、それが可能であったという状況も認められるのであって、前記の事実関係に徴すれば、被告人が二郎殺害の気持ちを放棄したのは、二郎が抵抗して布団に起き上がり、起き上がってからも首を振るなど抵抗を続けたことにもよるが、何よりも決定的な原因は二郎の悲しそうで苦しそうな目を見たことにより二郎に対する愛情の念が生じたことによるものと判断せざるを得ない。

果たしてそうだとすれば、被告人は二郎殺害の犯行を任意に中止したことが明らかであり、それ故、二郎に対する殺人未遂につき、中止未遂を認めず、障害未遂を認めた原判決には事実の誤認が存することとなる。

しかしながら、本件で二郎に対する殺人未遂と春子に対する殺人とは併合罪の関係にあるから、前者につき中止未遂による法律上の刑の減軽(必要的)をした場合としない場合とで、処断刑期の範囲は異ならないうえ、右中止未遂が認められることを前提に原判決の量刑の点を判断しても、以下のとおり、被告人を懲役一〇年に処した原判決の量刑は相当である。すなわち、被告人は極めて自己中心的で短絡的な動機から、安易に自殺を決意し、妻子を残して自分だけ死んだら、妻子に余計迷惑がかかると考えた末、被告人が性こりもなく作った借金を返済するために自分の労苦を厭わず働き、二郎が高校を卒業するまではとにかく頑張ろうとしていた、被告人のためにも二郎のためにもかけがえのない春子を、睡眠中に無抵抗の状態のもとで殺害し、更に二郎をも道連れにしようとしたもので、とりわけ春子殺害の犯行は動機、態様、結果とも悪質、重大であり、被告人の刑事責任は非常に重いから、被告人の反省の態度や被告人には前科・犯罪歴が見当たらないこと、二郎に対する殺人未遂が、前示のごとく、中止未遂であることなどの諸事情を被告人のために十分斟酌しても、原判決程度の量刑はやむを得ないといわねばならない。

結局、原判決の事実の誤認は、何ら主文に影響を与えるものではなく、判決に影響を及ぼすことが明らかであるとはいえない。

したがって、この論旨も理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条を適用して、当審における未決勾留日数中九〇日を原判決の本刑に算入し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山本卓 裁判官 油田弘佑 裁判官 片山俊雄)

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